恋愛の威力

恋愛をすると、人って馬鹿になるらしいです。

いいなぁ。自分も馬鹿になりたいです。周りのこと、将来のことがどうでもよくなるくらいの、アツい恋がしたいです。君さえいれば、他は何もいらない的な。

恋愛をすることで、人としての魅力が上がる気がします。人生って、いいことばかりではないです。いや、そもそも、自分の願いってなんだっけ。

自分はプライドが高いゴミクズです。人って、全てのステータスを合わせると0になるようにできていると思います。いいところがたくさんある人は、悪いところもたくさんあると思います。だから、全ての人は同じだと思います。欠点すらも愛するというのも、そういうことだと思います。

自分ってほんと、ダメな人間だなと思います。いや、そんなことはないです。自分は究極の、流され人間です。だからせめて、バイトは始めようと思います。てかほんと、なんでもいいからバイトを始めたいです。始められないのは、なんでだろう。

ガチコミュ障

自分はガチコミュ障です。基本相手が誰でもあんまり会話が盛り上がりません。

原因を考えました。自分がたどり着いた原因は、笑い声の出し方がわからないことです。笑い声の出し方がわからないと、笑う時にうまく笑えず、くすくすとしか笑うことができなくなります。

自分は笑い声が出せるようになりたいです。これはずっと前から思っていることです。どうすればいいかわかりません。笑い声を出せるようになれば、自分は誰とでも仲良くなることができるような気がするし、人生充実しそうな気がしています。でもこの過度な期待がよくないのかもしれないです。というか、笑い声を出すとかよりも先に、恋愛をしないといけないのかもしれないですね。自分が一人前じゃないことをわかっているから、笑えない。上手く笑う資格がないと思っているのかもしれないです。わからないですけど、自分は笑えるようになりたい、と思っていることは確かです。

コミュ障の原因は、笑い声を出せないことにあると思います。では、笑い声を出せない原因はなんでしょう。それは、技術的な問題とそれともう一つ、人間として一人前じゃないことがあると思います。技術的な問題は、すぐ上手になるとかありえないです。そうです、明るくなりたいです。誰かに打ち明けるのも一つの手かもしれないです。自分は考えます。

自分の身の回りでは、自信を持って笑えている人ばかりです。友達はみんな、思いのままに笑っています。自分にはそれができないです。見た目が無駄にいいことも、カッコ悪いことができない理由になっているのかもしれないです。でもカッコ悪くなることを避けて笑うことを避けて、コミュ障になるのはもっとカッコ悪いです。でも自分は、短期的なことを優先してしまう個体です。長期的に物事を考えることができないです。これは友達にも言ったことがあります。

とりあえずAirPods買ってみようと思います。そしてバイトに応募します。それからですね。自分は笑えるようになりたいです。それは本当にそう思ってる?今、そんなことあんまり思ってないかもしれないです。自分は、何を望んでたんだっけ。

これについては結論が出ています。望みを見失う仕組み。人は、幸せな理由を探すし、辛い理由を探します。幸せとか、辛いとかに、理由はないのに、です。じゃあ、自分のやることは、なんでしょうか。ここまで深く考えると、笑い声が出せないことなど、どうでもいいことになってきます。ちっぽけなことに思えます。それは今、自分が、幸せな理由を探すモードに切り替わったからです。今自分は、気分がいいです。世の中には、アホが多すぎます。

遠足に行った インスタグラムに初投稿した

突然ですが、自分は自意識過剰です。

本日友達と遠足に行ってきました。自分はその中で話についていくことがあまりできませんでした。考えられる原因は二つあると思っていて、一つは事前の準備、リサーチ不足で、もう一つは人間として薄っぺらいことだと思います。もちろん、もっと他にも色々理由はあると思いますが、とりあえずこの二つをば。「Aをば」っていうのは、「Aを」と同じ意味で、Aの部分を強調しているみたいですね。

事前の準備不足について、みんなそれなりにちゃんと調べてきていて、自分も次からはそうしようと思いました。

もう一つの、人間として薄っぺらいということ。これは、恋愛をしていないことです。恋愛をしていないと、人間として薄っぺらくなってしまう気がします。恋愛をしていると、他人から一人前と認められる気がしています。ちゃんと人間しているというか、そんな感じがします。そういう世間の風潮ってあると思います。となれば、無気力人間の自分がやることは一つであり、一人前になりたいのであれば、そういう世間の風潮に逆らわず、おとなしく従って恋愛をすることです。長い物に巻かれます。自分に取って恋愛は、それ自体に期待するものではなく、それによる人間関係の充実が目的な気がします。恋愛自体が目的の人は、モテない人である傾向があると思います。これについてはまた今度別記事で。

インスタグラムに遠足の写真を投稿しました。自分は超自意識過剰の見栄っ張りなのかもしれません。友達の後押しがなければ投稿することはなかったでしょう。自分がインスタグラムに投稿すれば、いろんな人に影響を与えるとか思ってました。一種の病気です。でも実際投稿してみると、みんなさほど自分に興味はないようで、全然変化もなかったです。しかし、今でも自分は、自分の知らないところで自分の噂が流れているんじゃないかと思っています。一種の病気です。

自由意志ってあると思う?

意識についての自分なりの結論を述べていこうと思います。結論、自由意志があるかどうかは、人間にはわからないことだと思います。人間は意識について、演繹的に理解することはできないと思っています。その理由は、意識がこの世界のものではないと思っていることです。思う、って全部つけるのは面倒だし読みにくいと思うので、ここから先は断言していきます。文面では断言しますが、断言していません。そこんとこご了承ください。

意識というのは、この世界より上位の世界のモノです。モノというか、概念です。ゆえに、この3次元の世界で生まれ、この世界から出ることなくこの世界で死んでいく人間が、意識という高次元の概念のものを演繹的に理解することはできません。自由意志などの意識の枠組みも、所詮人間が作り出した、考え出したもので、それがどれだけ意識というものに当てはまっているのかどうかもわかりません。というか、ほぼ当てはまってないのではないのでしょうか。自由意志があるかどうかの議論も、的外れかもしれません。

人間は意識について演繹的に理解することはできません。しかしこれは意識について考えることを放棄することを意味しているのではなく、意識について帰納的に考えましょう、ということです。大量にある経験というデータから、意識にはこういう性質がありそうだな、常にそうでなくとも、こうである可能性が高いな、という風に考えたらいい、というかそうするしかない、です。

ここで自分が見つけた、意識の性質について述べたいと思います。それは、ポジティブな感情とネガティブな感情は、総量は一緒ということです。感情関数があったとすると、時間積分の値は0になります。人間はポジティブな時とネガティブな時があります。なぜかというと、意識がそういうものだから、です。自分の経験則です。そして、どちらになるかは、環境に左右されることもありますが、どちらかがずっと続くということはあり得ないです。ポジティブな気持ちがずっと続くのが幸せであると定義すると、幸せはこの世界で人間として生きている限り無理です。で、どちらかがずっと続くということはあり得ないので、理由もなくネガティブになったり、理由もなくポジティブになったりします。それも、意識の性質です。そして人間は、それに理由をつけたがります。自分が今気分がいいのは、こうこうこうだからだ、とか、逆も然りです。実際には意識の性質上であるのにも関わらずです。自分は、意識にはこういう性質があると思っています。

だからどうって話ではないです。自分はブログでは、だからどうしようとかいうのは書きたくないです。ただ淡々と自分が事実であると思っていることを発信していきたいです。だからどうしようとか言うのは、各々考えるべきだと思います。それぞれ生きてきた環境やステータスも違うわけですし。ここまで断言しましたが、断言していないことを理解願います。

最後に、自分が納豆に何を入れるかですが、基本何も入れないです。でもからしは半分だけ、というこだわりがあります。あれからし全部入れたらからしの主張激しすぎます。

今週のお題「納豆」

自分が生きている理由がわかったっていう

自分が生きている理由が最近わかったので残しておきます。

自分が生きている理由は、周りの人が生きているからです。生きることが、普通だからです。自殺しない理由は、同世代で自殺する人がすごくマイナーだからです。おそらく、40代で自殺することが当たり前の世界であれば、自分はなんの疑問も持たず、周りの人と同じように40代で自殺していたでしょう。周りがそうだから。

少しずつ成長していくことが大事、確かコムドットやまとも言ってた


こんな感じの風刺画があります。自分が訴えられることはまずないと思いますが、一応手書きで失礼します。

この風刺画は多分、目標があった時、段階を踏んで達成しようとしますが、その段階が自分にとって大きすぎるハードルだと、目標に一切近づくことができない、ということを表しているのだと思います。ちょうど右です。それよか左のように、小さい段階をクリアしながら、少しずつ目標に近づいていくのがいいよね、的な話だと思います。

自分は結構右側のようなことをよくやってしまいます。それどころが、はしごの横線が一個もないようなこともあります。なので、それはいけないな、とここで改めたいと思います。

コムドットやまとも「聖域」で、同じようなことを言っていました。p72「目標を分解する」。今見返しましたが、少し違うかな?

自分はコムドットの動画を面白いと感じていて、コムドットが結構好きです。でもコムドット好きというのは、世間から嫌われる傾向にあると思います。自分はその風潮に逆らいたくないので、チャンネル登録はしませんし、たまに見る程度に留めておきます。ただ、コムドットの動画は面白いです。

 

色々考えた時にたどり着くところ

自分は人生について考えた時、最終的な着地点は常に一緒で、それは自分のコンプレックスにあります。毎回そのことが頭から離れていて、そして最終的に、あぁ、そうだったなと、そういう風にコンプレックスに辿り着き、そして自分に納得します。自分がこうなったのは、これこれこうで、こうだったからだと。

具体的なコンプレックス、それは自分が多汗症であることです。といっても全然軽度で、ステージ1?だと思います。全然隠せるくらいではあります。しかし多汗症というのは非常に厄介で、人生の積極性が失われがちです。特に対人関係で顕著になります。汗かいてるって思われたくない、臭いって思われたくない、そういった望みが、人と関わったり、人のことを好きになったりしたいという望みを上回ります。

自分がこうなったのは、多汗症のせいであると。多汗症だから、自分はこうなったのだと。もちろんそれだけが理由ではないと思いますが、少なくとも大きな理由の一つであり、個人的には最も大きな理由であるとも思います。もっと積極的に、充実した人生を送りたかったです。しかしそれは、現代の医療では叶わないことです。

これが頭から抜けていて、自分はもっと優れた人間である、と過大評価し、なんでなんだ、と考えることがしょっちゅうですが、いつもこの着地点に辿り着きます。そして、自分に納得します。